【掌中の珠 最終章 9】   



それから一か月の間、孟徳は動かなかった。
川の捜索は、玄徳からの間者の目を欺くために人員を減らしたまま続けさせている。残り兵士には牧の館の整備と帰り支度を指示し、玄徳や花が滞在している屋敷からの密偵は、毎日朝と夜と報告を続けさせていた。
「今日は離れの裏で…あ、そこは前回丞相が見られた場所からは見れない奥まったところなのですが、そこで数人で貝を焼いて食べておりました。玄徳と芙蓉姫、子龍とあと雲長と翼徳がそろっており、酒を飲みながら笑って食べておりました」
「本日は夕方に中庭に出てこられて、そこに猫が迷い込んできて芙蓉姫と一緒に猫と遊んでおられました。ちょっと走る…というか小走りで追いかけられておりました」
心も体も少しづつ回復している様子を聞きながら、孟徳の表情は変わらないままだ。
元譲はそんな孟徳の様子を横目で観察する。

花についてもここで駐留している自軍についてもどうするんだと聞きたいが……聞ける雰囲気ではないな。

前は当然迎えに行くと言っていたからすぐに玄徳たちのところに赴くのかと思っていたがそんな様子は全くない。
何も言わない孟徳をおいて、元譲は密偵と一緒に孟徳の部屋を出た。
牧の屋敷は半分が延焼のため黒焦げになっていたが、夫人たちの住んでいたと思われる住居の方は延焼をまのがれており、孟徳や元譲たちはそこで起居していた。丁寧に手入れされている庭の木々が少し肌寒い風にさらされ揺れている。葉もなく花もなく寒々しい景色だがもうすぐ春がくれば美しい庭になるだろう。昼の日差しが長くはいる外の廊下を歩いていると向かい側から兵を引き上げる準備を任せていた隊長と行き会う。
「孟徳への報告か?」
「はっ」
「俺が聞こう。なんだ?」
「出発の準備がすべて整いましたのでご報告を」
「そうか」
元譲はしばらく考えて、「孟徳のところにも報告に行ってくれ」と彼を行かせた。そろそと決めてもいい時期だ。花を置いていくのか連れて行くのか。
しかしそれからさらに1週間、孟徳は動かなかった。そして暖かい日がつづくようになり春を迎えた花があちこちで咲き始めるころに、孟徳はようやく立ち上がる。


あたたかな早朝、豪農の家にいきなり来た丞相からの使いに、農家のおかみさんは驚いた。慌てて、部下たちと広間で朝餉を取っていた玄徳へ知らせに行く。
「丞相から?これまでの連絡はすべて川沿いの陣の方に来ていたが、ここに来たのか?」
玄徳たちがここで居住していることは別に秘密ではないが、ここには花がいることはふせていた。使いをまたせている玄関へと急ぎながら、だがしかし、玄徳はこの孟徳からの使いは花のことだろうとなんとなく感じていた。
農家の玄関のところにいる孟徳からの使いに声をかけようとして、道の向こうから大きな馬車がやってくるのが見えた。豪奢な飾りぼりの窓もある普通より一回り大きい馬車だ。
「孟徳殿……」
農家の入り口に止まった馬車から降りてきたのは、想像通り孟徳だった。
「玄徳殿、朝早くからすまないな」
玄関へとやってくる丞相とその護衛たちの豪華な様子に農家のおかみや召使は目を白黒させている。
「いえ、構いませんが何かありましたか」
玄徳も歩み寄る。
「本日この地を引き払うこととした。なので挨拶と……」
孟徳はそういうと離れの方へ目をやる。
「私の妃を迎えに来た。預かっていただいたようで感謝する」


花がその知らせを聞いた時は、ちょうど芙蓉と朝ごはんを食べているときだった。あたたかい豆乳がゆと少しのお漬物。
「あの、とりあえず応接室にお通ししてまして、花様を呼んでくるようにと玄徳様より申し使っております」
下働きの女の子はそういうと、扉を開けたまま花を待つ。
「花……」
芙蓉は茫然として花を見た。どうするの?とその表情は聞いている。
「……行かなきゃ」
花もまだ考えがまとまっていなかったし孟徳に会うことは想定していかなった。そりゃあいつかはとは思っていたが平穏な毎日に都でのつらかった日々が夢のように思えてきて考えないようにしていたところもあった。それでもこの状況で花にできることは、孟徳に会うことしかない。
立ち上がって扉の方へ向かう花の腕を、芙蓉が強くつかんだ。花が芙蓉の目を見る。芙蓉は花の顔を覗き込んだまましばらく黙っていた。
「……逃げてもいいのよ」
「……」
「誰か兵士を呼んで裏から馬で逃がしてあげる。蜀の玄徳様が住んでる城まで2日ほどでつくわ。私は時間を稼ぐから……」
花は芙蓉の真剣な顔をみて笑った。そんなことをしたら大変なことになると芙蓉も分かってて言ってくれているのだ。それがうれしくて、笑いながら涙がにじむ。
「ありがとう。……ほんとに。でもいいよ、私は孟徳さんと会わないと」
そういって花は戸口から外に出た。春の朝の光が柔らかく花を包む。中庭の木のつぼみが1輪、2輪とさき始めてる。

白い花だったんだな。

そして後ろを青ざめた顔でついてくる芙蓉をぎゅっと抱きしめた。「ありがとう」



応接室へ向かう廊下で、花はこちらに急ぎ足で来る玄徳に会った。
「大丈夫か?」
うなずく花に、玄徳は続けた。「孟徳殿と会ってちゃんと話した方がいいと俺は思うんだ」
芙蓉が「玄徳様!」と小さく言うのを制して、玄徳はさらに続ける。「花、こちらに残りたいのなら孟徳殿にそういえばいい。俺は……いや俺たちは花がそれを望むのなら喜んでうけいれる」
花は玄徳の黒く誠実な瞳を見上げた。花がこちらに残ると言えば間違いなく戦になるだろう。わざわざ迎えに来た孟徳を蹴って玄徳のところに残るのだ。どんなに隠したとしてもひそやかな噂は陣に広まり、孟徳の面子は丸つぶれだ。孟徳は何も言わなくても取り巻きがだまっていないだろう。魏と蜀の微妙な均衡はくずれ中華はまた騒乱に巻き込まれる。それでも花の希望を聴いてれるという玄徳に、花の視界はまたにじんだ。
「ありがとうございます」
玄徳のもとにとどまりたいのか孟徳と一緒に行きたいのか。
花はまだ自分の心がわかっていなかった。まだこころが分厚い布にくるまれているようで感情も頭の動きも鈍くなっている感じ。でもいつかは現実に対峙しなくてはいけないことはわかっていた。それが今朝だったというだけだ。
ちゃんと前を向かなきゃ。
花は応接室へと続く廊下を見て、緊張した顔の玄徳と芙蓉を見る。
ここで玄徳さんたちに優しくしてもらったパワーで、もう一人で歩けるはず。
「孟徳さんに会ってみます」


花が入っていくと孟徳が立ち上がった。
「花ちゃん」
花の全身に目を走らせ、花の顔を見つめる。
「……帰ろう」
孟徳はそういって手を差し出した。声は冷たく表情も固い。花はぼんやりしたまま一歩、孟徳の方へと足を勧めた。催眠術にかけられたように、考えられないまま体が動く。
孟徳の、あの手をとるのかとらないのか。決めかねながらももう一歩。
応接室にいる玄徳と芙蓉が固唾をのんで見つめているのがわかる。花はもう一歩、二歩とすすんだ。これでもう花が手を伸ばせば孟徳の手に届く。ずっと孟徳の手だけを見ていた花は、そこで初めて孟徳の顔を見あげた。
目が合って、花には孟徳の茶色の瞳のさらに奥で何かが動いたのが見えた。そしてそれが見えた瞬間、それがなんだったのかなぜ動いたのかが花の頭に伝わる前に花の足は勝手に動いて、孟徳の胸へと飛び込んでいた。
「……孟徳さん」
そうつぶやいたつもりだったが、声にならなかったのかもしれない。でも胸の中でくぐもった花の言葉は孟徳に届いたはずだ。
孟徳の体は固かった。花に抱きつかれた後も一瞬硬直したように固まる。そしてすぐに腕を回して花を抱きしめた。固く、強張った腕できつく抱きしめられ花は思わず「いたっ」と叫んでしまう。
「ご、ごめん!」
孟徳は慌てて腕をほどいた。「怪我は?まだ治ってないよね、ごめん。大丈夫だった?」
天下の丞相がみっともなく慌てて焦っているのを、玄徳と芙蓉はあっけにとられたまま眺めていた。迷いなく孟徳の腕に飛び込んだ花にも驚いたが孟徳の狼狽具合にもびっくりだ。おそらく孟徳も、花が胸に飛び込んでくるとは予想してなかったに違いない。抱きしめ返したのはいつもの取り繕った『丞相』の演技ではなく本当の孟徳だったのだろうというのが玄徳と芙蓉にも伝わる。まるで溺れる者が藁をつかむように無我夢中で花にすがりついた。
玄徳がため息をついて芙蓉を見ると、芙蓉もあきらめた顔をしていた。
「……私には、花の幸せを祈ることしかできないみたいですね」
芙蓉の悔しそうな言葉に玄徳は笑顔になった。「そうだな」
だがそれが花の幸せとイコールであることは、今目の前の花と孟徳を見ていればわかる。
孟徳は今度はそっと優しく花の抱きしめていた。
もう二度と掌の中の大事な珠を壊さないように。そっと。










 BACK  NEXT